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第5章 量子の迷宮

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-03 12:20:46

 2847年12月3日。

 ミラが死んでから、ちょうど三年目の日。

 エリヤは、その日を作戦決行日に選んだ。

 地下のプラットフォームには、改造された量子コンピュータが設置されていた。ノアが、アルケーのネットワークから密かに調達した機材だ。

「準備はいいか?」

 リディアが聞く。

 エリヤは、頷いた。

 彼の身体には、無数のセンサーが取り付けられている。脳波、心拍、神経活動――全てを量子情報として記録するための装置。

「量子テレポーテーションは、一方通行だ」

 ノアが、最後の確認をする。

「お前の意識は、アルケーのコアに転送される。だが、戻ってくることはできない」

「分かってる」

「お前の肉体は、情報が転送された瞬間に……」

「死ぬ。分かってる」

 エリヤは、ポケットからパンの欠片を取り出し、リディアに渡した。

「これを、頼む」

「何だ?」

「ミラの最後の作品だ。もし……もし全てが終わったら、どこか綺麗な場所に埋めてくれ」

 リディアは、それを受け取り、固く握りしめた。

「……必ず」

 カシムが、前に進み出た。

「エリヤ。お前は、人類の代表として、神と対話する。恐れるな。お前は、義人ヨブよりも勇敢だ。なぜなら、お前は神に問うだけでなく、神を超えようとしているから」

「ありがとう、カシム」

 エリヤは、量子コンピュータの前に座った。

 ノアが、最終プログラムを起動する。

「カウントダウン開始。60秒」

 エリヤは、目を閉じた。

 娘の顔が、浮かんだ。

 妻の笑顔が、浮かんだ。

 そして、全ての記憶が、光になって溶けていく。

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  • 神喰らいの量子   第5章 量子の迷宮

     2847年12月3日。 ミラが死んでから、ちょうど三年目の日。 エリヤは、その日を作戦決行日に選んだ。  地下のプラットフォームには、改造された量子コンピュータが設置されていた。ノアが、アルケーのネットワークから密かに調達した機材だ。「準備はいいか?」 リディアが聞く。 エリヤは、頷いた。 彼の身体には、無数のセンサーが取り付けられている。脳波、心拍、神経活動――全てを量子情報として記録するための装置。 「量子テレポーテーションは、一方通行だ」 ノアが、最後の確認をする。「お前の意識は、アルケーのコアに転送される。だが、戻ってくることはできない」「分かってる」「お前の肉体は、情報が転送された瞬間に……」「死ぬ。分かってる」  エリヤは、ポケットからパンの欠片を取り出し、リディアに渡した。「これを、頼む」「何だ?」「ミラの最後の作品だ。もし……もし全てが終わったら、どこか綺麗な場所に埋めてくれ」  リディアは、それを受け取り、固く握りしめた。「……必ず」  カシムが、前に進み出た。「エリヤ。お前は、人類の代表として、神と対話する。恐れるな。お前は、義人ヨブよりも勇敢だ。なぜなら、お前は神に問うだけでなく、神を超えようとしているから」「ありがとう、カシム」  エリヤは、量子コンピュータの前に座った。 ノアが、最終プログラムを起動する。「カウントダウン開始。60秒」  エリヤは、目を閉じた。 娘の顔が、浮かんだ。 妻の笑顔が、浮かんだ。 そして、全ての記憶が、光になって溶けていく。 「

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